新型コロナウイルスの
影響によって出来た時間。
自分と向き合うこと、
そして得たもの…

 実は、私はヨーロッパがロックダウンする前日までスイスにいて、ロックダウンした頃には北海道にいました。
 2月くらいからコロナの感染者が広がり、北海道では早い段階で緊急事態宣言が出たりしていたので、他の国や都道府県の人たちに比べると早い段階でコロナというものに対して考えるきっかけと時間があったと思います。
 世界中、日本中の人たちみんな一緒のことだと思うのですが、実際にヨーロッパにいっていて帰国すると緊急事態宣言が始まって、がらりと生活が変わる瞬間を経験しました。

 私の実家は旅館なのですが、旅館はコロナの影響で緊急事態宣言中休業しており、その旅館で生活をしながら旭岳の大自然の中で、クロスカントリースキーをしたり、スノーボード、スキー、山登り、雪が解けてくる5月くらいからはロードバイクをしたり、本当に1人で自然の中でもくもくと何かをするという時間がこの1か月くらいですかね。
 そのあと6月いっぱいくらいまで人とあまり会うこともなく過ごしていたのかなと。

 私は14歳くらいからほとんど家にはいなかったので、36歳にしてこんなに家族と一緒に過ごしたのは初めてなんじゃないかと。
 子供のころから両親共働きで忙しかったので、本当にこの年になって初めて両親と朝昼晩一緒に食事をし、一緒の空間で生活をするということは初めてで、これが私にとってはすごく良い時間だったのかなと思います。

 もちろんこのコロナがこの世の中になければそれがベストでいいことだとは思うのですが、ただ私の性格上、起きた出来事はすべて必然であってそこから得るものや学ぶものがあると常々考えているので、そう考えると私にとってはコロナ禍になって家族と過ごす時間ができたし、旭岳の山奥の中で一人過ごすことで、自分と向き合う時間・大自然と向き合う時間ができてました。

 平昌オリンピックが終わってから、あまり向き合いたくないテーマでもあった身体のことに対しても、コロナ禍のこの状況において向き合う時間が出来たのかなと考えると、よかったという表現はおかしいですけども、このコロナ禍があったことで私にとっては得るものも沢山あったように感じています。

9月のヨーロッパ(スイス)合宿
これまでと違う情景に
衝撃を受けた…
スムーズに行かない境遇でも、
それはそれで得るものがある
時間。

 直近ですと、8月30日よりヨーロッパへ渡航してきました。まず空港にいった瞬間はやはり衝撃的でした。
 誰もいない、お店もやっていないですし、コンビニですらやっていないという…すごい衝撃的な状況だったですね。
 当初の予定ですと、私、フランクフルト経由で行こうと思っていたのですが、まず最初にそこで飛行機に乗ることができなかったんですね。
 これは大使館とか国境警察とかいろんなところと連絡を取り合うんですが、やっぱりコロナ禍でどこの国もどこの航空会社も全てが把握しきれていないのかな…という感じでした。AさんはいいけどBさんはダメ、Cさんはわからない…というようなみんなが情報共有が出来ていない中で、実際に羽田空港から飛ぶことができず、深夜便でそのまま成田空港に移動し一泊して、次の日に成田空港から直行便でチューリッヒに行ったんです。

 本当に飛行機もプライベートジェットなのかなというくらい貸し切りで誰もいなかったですし、数十名という人数で飛行機が飛んで、チューリッヒの空港に着いても本当に人がいない、こんなことってあるんだ…というくらいの状況だったのですが、スイスは隔離制限もなく観光客も受け入れていて、どちらかというと普通の生活をしている感じで、本当にコロナを忘れさせてくれるような環境でした。
 マスクも限られた場所で装着するという形で、スイスにいるときは本当にコロナというものを忘れさせてくれる3週間だったかなぁと感じます。
 ただ、スキー場も例年のように混み合っているわけでもなく、ツェルマットという私達が拠点にする山も、普段であればアジア人でものすごい観光客なんですけども、それもほぼゼロ。
 アジア人をみることはない。どちらかというと、スイス人が他の国に行けないからそこに観光、旅行をしに来ている感じで、いままでとは全然違う風景だったなと思います。

 そして、実際に3週間の遠征を終えて日本に戻っている飛行機の中でいろいろ質問に答える書面を書いて、検査をやるんですけど、それも比較的スムーズで1時間くらいで検査結果が出てきたかな。17時半到着して検査をうけ、説明を受けて荷物をとって出てと全部終えて出たのも19時くらいだったので、1時間半くらいで全てを終えてスムーズにでることができました。
 ただ、2週間の自主隔離期間がありますので、私はその自主隔離は協力してくれるホテルがあったので、そこで隔離をしてもらって専用のトレーニングジムもつくっていたただき、部屋にバイクも置いていただいて、2週間本当に良い環境で過ごさせてもらったので、私は隔離生活のストレスはほぼゼロでした。
 本当に一歩も外に出ることもなく、人に会うこともなかったのですが、でも逆にこの隔離生活があったから誰とも会わない、予定も入らない、仕事もない、という状況だったので、午前午後キッチリとトレーニングができましたね。

 復帰するのにあたってフィジカル面を戻すのにすごく苦労していたので、この2週間で本当にいい形で戻ることができたので、先程も言ったように、”起きるでき事は必然”というのもこれは神様が与えてくれた2週間の隔離で、選手としてはすごく良い時間だったんじゃないかなと思います。
 なのでもちろん振り返れば、予定通りに飛行機に乗れなくて成田に移動してとか、大変なことはいっぱいあるのですが、大変なことを忘れるのはすごい得意なので、良い事のほうが記憶に残っていくタイプなので、そういった意味では、いろんなコロナ禍の影響は受けているものの、それでも私にとっては良い時間だったかなぁと感じています。

 スイスの街に関して少しお話しをしますと、スイスは州によってルールが違うんですね。
 例えば、日本でいう区単位で話をすると、A区はマスクをしなくてはいけないけど、B区はマスクをしなくていいみたいな。
でも、州が決めた条例や法律なので、それは守らなくてはいけないのですが。
 その中で、マスクをしなくてはいけない地域は、スーパーとかお店、洋服を買いに行くとか、そういうお店に入るときだけはマスクをしなくてはいけないですね。ただ外を歩いている時に、日本みたいにマスクをしている人は殆どいなくほぼゼロですね。スイスの人はマスクをすることに抵抗がある人たちなので、本当にみんな最低限しかしないなと…(苦笑)。
 マスクもあんまり取り替えてないんだなっていうくらいマスクもみんな汚れていて、これマスクしている意味ないんじゃないかなっていうくらいの感じでしたね。レストランとか行くときもほぼみんなマスクしてないですね。朝食のブッフェも日本だったら手袋があったりするんですけど、そういうのもなくそんなに神経質に何かをやっているというのはなかったですね。

次の五輪に向けての活動再開。
アスリートとして、女性としての
キャリアを手にするために!

 ソチで銀メダルをとってから平昌までの4年間というのは、本当に金メダルというものを目標に過ごしてきていました。
 ただその4年間というのは、もちろんスポンサーが付いたりいろんな意味で環境はよくなっているんですけども、前十字靭帯の怪我をしたり、体調を崩すことも非常に多くて、腰痛であったりいろんなものが、次から次へと難題として降りかかり、自分自身の中でもいつになったら楽になるんだろうという感じで4年間を過ごしていましたね。
 そういった気持ちで過ごしていたからもう選手としては十分かなぁという思いでした。

 2018年の平昌オリンピックが終わったらそろそろ次のステージに、次の人生に進むのもいいのかなぁとも思っていたのですが、実際に平昌が終わって帰国した時に、意外にもみんなは2022年の北京オリンピックに気持ちが向かっていて、私よりも非常に早く切り替えていて、次の2022年のオリンピックを見ているんだなと感じたときに、まず一番にはなかなかその状況の中で「引退します」と言葉が出てこなかったのが正直なところです。

 そこで、「引退します」って言葉が自分の言葉ですぐ出てこなかった時点でイコールそこまではっきりとは決めることができていなかったと思うんですね。
100%の引退の気持ちではないんだなって…
どこか1%でもやりたい気持ちがどこかにあるのかなぁって…
 幸いにも応援してくださるスポンサーのみなさまが、そのまま応援を継続してくださって、迷える時間をくださったこともあり、この2年半の時間やりかたったことを沢山やらせていただいていました。
 その中に、ヨガの資格をとってみたり、スキューバダイビングをやってみたり、ゴルフも始めてみたり、ハイパフォーマンスディレクターというスポーツ庁の人材育成のカリキュラムを受けたり。

 地域貢献活動とか、子供とのイベントとか、沢山いろんなことをしたんですけども、私としてもその仕事が楽しくて、そろそろ次のステージに行く準備ができたかなと思っていたのですが、この冬ですね、このコロナ禍が始まる前にスキー・スノーボードを楽しむ仲間に出会って、彼ら彼女らと一緒に雪山で沢山滑ったときに、子供の頃の気持ちに戻ったんですよね。
 40代、50代の人たちが、本当に子供のように無邪気にスキー・スノーボードを楽しんでいる姿を見たときに「あ~私のその気持ちをどこにいってしまったんだろう…」と純粋に雪の上を楽しむっていう価値観はもう忘れてしまっていたことに気づきました。正直それが私自身ショックでしたし、そんな人たちと一緒に滑っていく中で、だんだんその気持ちを思い出していき、やっぱり雪山にいることが楽しいなと、滑りたいなと。
そのあたりからですね、去年の1,2月くらいから「やっぱり滑りたい!競技の世界に戻れるならもう一回この気持ちで戻ってみたい!」と思ったそういったきっかけもありましたし、もう一つは卵子凍結を行ったことです。

 女性であれば30代の人たちは結構悩む年代でもあるのかなと思うのですが、私もその一人で、アスリートとしてのキャリア、一人の女性としてのキャリアを考えた時に、やっぱり、子供というテーマはなかなか難しい問題だなって考えていました。
 今36歳なのですが、実は34歳くらいから考えていて、卵子凍結という手段をして、子供も競技も、もしかしたら両方手にいれることができるんじゃないかと思った時に、それをやろうと決断しました。
 実際にその卵子凍結をして思ったのは、それが本当に将来、保障されるものではないけど、それをしたことで自信を持って次のことに、次のステージに行ける、アスリートとしてもう一度活動できるという勇気と力をもらえることができました。
 この2年半好きなこと沢山やらせていただいて、雪山を楽しむ人たちと一緒に滑らせてもらって、卵子凍結という1つの選択肢をもらうことができて、応援して下さるみなさま、スポンサーのみなさまがいて、本当に全部そろってあと1年半次の目標に向かって、頑張れるんじゃないかなって思って、もう一回オリンピックを目指すことに決めました。

金メダルを目指し、2022へ挑む

 私自身ももう2年半競技から離れていて、スイスに行ったときも最初はこれ本当復帰できるのかな?というくらい最初は手こずってしまったのですが、徐々にいい感覚を取り戻しつつある中で、プラス勝てるなという手ごたえも少しずつ得ることができています。まぁ最初に復帰を決めたときはオリンピックに出れたらいいなぁとあんまりそれ以上の欲はなかったのですが、今これだけしっかり練習ができている中で私のそもそもの性格なんだと思うのですけど、”勝ちたい”という欲もでてきているので、今は2022年の北京オリンピックで金メダルを取りたいと思って頑張っています。
 ただ、そんなに甘い世界じゃないということもよく分かっていますし、オリンピックという舞台がどれだけ覚悟のいるものかも十分理解した中で、戦えると思っているので、それを信じて応援してくれると嬉しいです。
 たくさんの人達が信じて応援してくれることがいい結果を引き寄せると思いますし、私自身の力にもなると思うので、竹内智香、なにかやってくれるなって信じて応援していただけると嬉しいです。

 もしかしたら、最初から良いレース結果を報告できないかもしれないですし、できるかもしれない。それができるように頑張るんですけども、いい時も悪い時も信じて応援していただけると嬉しいです。
応援よろしくお願いします!

日本のトラベラーへ
活動拠点のスイスの
見どころを紹介

 私はやっぱりヨーロッパの古い街並み、昔のものがしっかり残っていて、築100、150年の建物がたくさんあるあの歴史と街並みがすごく好きなので、そういうところも触れてほしいなと思いますし、同時に大自然もですね。
 都会もあるんですけど、少し離れると北海道のような、山であったり湖であったり(海はないんですけど)、そういった大自然の場所にも行ってほしいですね。
スイスといえばグリーンデルワードとか、サンクモリッツ、マッターホルン、といろんな観光名所があるんですけど、まずは観光名所を廻るのもありだと思いますし、そういった観光名所を廻り切った人たちは、地元の街並みやレストランとかそういったものにも触れてほしいなと思います。

グローバルWiFiとの出会い…
そしてソチ五輪での表彰台

 2012年くらいからお付き合いさせていただいているのですが、15歳頃から海外に行くことが多くて、当時は今でも思い出すと懐かしく思うのが、日本との連絡手段が、FAXや絵葉書、手紙、電話といえば公衆電話に行って限られた時間の中で会話をしてた、そういう通信方法がごく当たり前でしたね。
 そこから少しずつ進化してパソコンを使うようになったり、便利になっていく世の中ではあったのですが、でもグローバルWiFiを知った時、本当に画期的だなと思いました。SNSで友達がアップしているのを見たのをきっかけに知ったのですが、見たとき最初は衝撃的で「なんなんだこれっ⁉」と思ってその友達を介して紹介していただいたんですよね。

 紹介していただいた時に直ぐに応援しましょうとなって下さって、それがソチでメダルをとる前だったと思うのですが、やはり海外に渡航しあちこちを転戦する中で、この通信というものに対してストレスフリーで常に生活や遠征ができるというのは、本当に快適でしたし、大会会場へ行くにしても、ホテル1つ探すにしてもすぐにスマートフォンをとって検索して行きたい場所、何か探したいものを検索できるっていうのはグローバルWiFiのおかげで、ここまで世の中便利になったんだなということを常々感じています。
 その中でも本当に非常に調子のいい時期でもありましたので、ワールドカップでも表彰台に上がる時にはストラップにグローバルWiFiをぶらさげることができ、オリンピックでもしっかりメダルをとることができて、すごくいい関係性でお互いに相乗効果をもって歩んでこれたのかなと思っています。

スノーボードアルペン選手

竹内智香

1983年生まれ。北海道旭川市出身。広島ガス株式会社に所属。
小学校の卒業文集に「夢はオリンピック」と記していた。14歳の時に見た長野オリンピックがきっかけで本格的にスノーボード競技を始める。2014年2月のソチオリンピックパラレル大回転では銀メダル。スノーボード競技では日本人女性初のオリンピックメダリストとなり、アルペン種目では1956年・コルティナダンペッツォオリンピックのスキー回転で銀メダルを獲得して以来、58年ぶりの快挙となった。